総会
令和8年度は5月30日(土)開催予定
令和8年度は5月30日(土)開催予定
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在京同窓会が昭和26年(1951)に設立されてから、73回目を迎える令和6年度在京会高同窓会総会を4月20日(土)11時から上野精養軒で関催いたしました。
当日は好天にも恵まれ、参加者は昨年の総会よりも多い121名(同窓生、来賓、学生含む)が参集しました。今回の総会は同窓会執行役員・事務局に加え、高校34回卒の方々が中心となって運営に当たりました。第一部の総会は窪田茂副幹事長の司会進行で始まり、佐藤学副会長の開会挨拶に続いて校歌斉唱に移りました。今年は例年どおり、応援団長OBの鈴木忠正(高15・現幹事長)のリードでCD演奏に続いて会津中学・高校の校歌を声高らかに斉唱いたしました。大越会長のご挨拶はコロナ影響禍で事業計画のいくつかが中止となった一昨年に対し、令和5年度は例年通りの活動に戻ったことと、令和6年度はより活発な活動が期待されることなどに言及されました。例年の式次第では今年母校に着任された遠藤利晴(高36)校長のご挨拶に移るのですが、母校のPTA総会と重なり、欠席となりましたので、事前にご用意いただいた「在京会高同窓会の皆様へ」のメッセージ(受付時に配布)を司会者が読み上げて紹介いたしました。議事に移り、議長に選出された芳賀克己副会長の進行で議事に入りました。令和5年度会務報告・会計報告・監査報告、並びに令和6年度の事業計画案・予算案が提案・承認され、議事の最後である役員辞任に伴う補充案並びに会則付則改正案も満場一致で承認され、目黒公郎副会長の閉会の挨拶で総会を終了しました。小休憩を挟んで、第二部の会員スピーチに入り、ここからは居藤博典氏(高34)の司会進行で、笹川財団上席研究員の渡部恒雄氏(高34)による「米国大統領選挙をどう見るか」と題するテーマで購演をしていただきました。今年11月に行われる大統領選挙を半年後に控え、【日本では「もしトラ」(もしトランプになったらどうする?)から「ほぼトラ」(ほぼトランプの勝利で間違いない)という言葉が独り歩きしていますが、現時点での全米の世論調査はトランプ44・6%対44・2%で、統計上の誤差(3%)を考えれば、完全に互角であり、「ほぼトラ」というのは時期尚早で、トランプも弱点を抱えており、どちらが勝利するかは、現時点ではわからないほどの接戦状況にあります。】という講演は聴講する同窓生にとって、時宜を得た興味深い講演内容だったと思います。小休憩の後、第3部の懇親会は木田徳彦氏(高34)の進行で来賓の方々の紹介、会津若松市長代理の会津若松市教育長寺木誠伸氏(高28)による祝辞、祝電披露と進められ、地元同窓会会長の林健幸氏(高34)のご発声による、会津清酒花春の乾杯で始まりました。今回の懇親会は前回同様、個別配膳ではなく、通常の宴会方式での運営となりました。懇親会では8名の新入学生を含む学生・大学院生22名、若手社会人7名の参加があり、3~4名ずつが各テーブルに配置され、学生・院生はその場で立礼での紹介が行なわれました。各テーブルを越えての交流の輪が広がり、世代を超えたより深い親睦が図られました。宴たけなわのところで、吹奏楽部OB(高34)の永窪方明氏、寺島康弘氏、渡部恒雄氏とOG(高62)で、昨年も演奏していただいたプロのサクソフォン奏者・陬波花梨(すわかりん)さんによるポピュラー音楽演奏が30分間披露されました。アンコール演奏リクエストの大きな拍手が鳴りやまず、会場はこれまでにない大きな盛り上がりを見せました。
続いて学而会歌・凱旋歌斉唱となり、応援団OB目黒雅之氏(高33)のリードでCDによる演奏の後、学而会歌・凱旋歌を熱唱いたしました。最後に荒井伸吉副会長(高17)が、来年の再会を祈念しての手拍子による中締めで懇親会を終了しました。来年度は【令和7年6月1日(日)11時~上野精養軒】を予定しております。多くの同窓生の皆様のご参加をお願い申し上げます。
幹事長 鈴木忠正(高15回)
総会に参加して① 上田康太郎(高72回) 法政大学3
上京して会津学生寮に入寮してから在京同窓会の存在を知り、毎年参加させていただいております。学生の身分ではいただくことのできない上野精養軒での華美な食事と会津の美酒、そして大先輩方からの厚い激励に毎回心と体に活力が生まれています。
我々Z世代の学生はSNSを活用してコミュニティを簡単に作ることができます。しかし、そのようなコミュニティは浅薄な関係に終わることも多いです。例えば入学時にX上を通じて作った大学の友達です。入学時は友だちができるかどうか不安で一緒にいますが、気づいたらバラバラになってしまいます。
一方で在京同窓会は、世代を超えて「会津高校」「会津出身」という共通項を持っており、それが伝統的に受け継がれている素晴らしいコミュニティであると感じています。特に大先輩方の豊富な人生経験に基づくお話や現役の社会人との関係が築けるという点で、学生にとって有意義な体験をさせていただくことができております。
しかし、学生や若手社会人の参加率が高いとはいえません。学生の参加者数は今年20余名ほどで、去年、一昨年に比べれば増加しましたが、在京同窓会を将来にわたり残していくには非常に少ないと感じております。私も微力ながら在京同窓会の魅力を発信し、少しでも若手の参加が増えるように尽力いたしますので、今後とも学生への暖かいご支援のほどをお願い申しあげます
総会に参加して② 平野真帆(高76回) 立教大学1年
まだ新生活に慣れていない中、今回、在京同窓会に参加をさせていただきました。大学が始まってまだ一か月もたっておらず、新たに友人を作ることに苦労していました。そのような状況の中で、母校・会津高校の友人と、先輩方にお会いすることができるということはとても安心感がありました。
上野精養軒で行われた在京同窓会総会では、会津高校の校歌を斉唱したり、先輩方は会津の美酒を堪能していたりと、東京にいながら地元・会津を強く感じることができました。各界で活躍されている先輩方とのお話は、なかなか業界の方に直接聞く機会がないため、とても勉強になりました。
また、東京に来てまだ間もない私は、先輩方に東京という街について様々な質問をしたのですが、その都度丁寧に答えてくださったので一人暮らしをする不安が少し和らぎました。大学生としてこれから会津を離れて東京で学業に励まなければならないという決意ができました。また、食事もとても美味しく、食事の間に先輩方の演奏を聴くことができ、とても楽しく過ごさせていただきました。
同じ会津高校の仲間として、この先輩方とのつながりを絶ってはいけないと強く感じています。若い私たちも積極的にこの会に参加し、地元愛を高めるとともに、会員同士で関わりあって様々な分野について知ることで、一人前の大人になれるようにしていきたいと思っています。
新型コロナウイルス感染症が3週間後には5類感染症に移行されることになっていた4月15日(土)11時から上野精養軒で令和5年度在京会高同窓会総会を関催いたしました。
当日は前日からの降雨が続き、新幹線利用で参加予定だった同窓生が運転見合わせの影響で欠席となるなどもありましたが、参加者は昨年の3年ぶりとなつた総会よりも多い90名(同窓生、来賓、学生含む)が参集してコロナ過の影響を受けずに予定通り、開催することができました。
今回の総会は同窓会執行役員・事務局に加え、高校33回卒の方々が中心となって運営に当たりました。
第一部の総会は佐藤光利副幹事長の司会進行で始まり、大平隆司副会長の開会挨拶に続いて校歌斉唱に移りました。昨年はコロナ過でもあったので、マスク着用・黙唱でしたが、今年は例年どおり、応援団長OBの鈴木忠正(高15・現幹事長)のリードでCD演奏に続いて会津中学・高校の校歌を声高らかに熱唱しました。大越会長が僅か4か月足らずで世界中に広まっているAIのチャットGPTを実際に操作した感想などを交えてご挨拶をされ、母校の鈴木義祐校長のご挨拶に続いて、議長に選出された芳賀克己副会長の進行で議事に入りました。令和4年度会務報告・会計報告・監査報告、並びに令和5年度の事業計画案・予算案が提案・承認され、議事の最後である役員改選案も満場一致で承認され、荒井伸吉副会長の閉会の挨拶で総会を終了しました。
小休憩を挟んで、第二部の会員スピーチに入り、ここからは目黒雅之氏(高33)の司会進行で、東京大学教授の目黒公郎氏(高33)による「関東大震災から100年―国難災害に対する最重要課題とその改善へのヒント」と題するテーマで購演をしていただきました。今年は各地で揺れの大きい地震が頻繁に発生しており、参加者の真剣な眼差しで聞き入る姿が特に印象に残る、正に時宜を得た講演内容だったと思います。
小休憩の後、第3部の懇親会は引き続き目黒雅之氏の進行で来賓の方々の紹介、地元同窓会会長の林健幸氏(高34)の祝辞、祝電披露と進められ、関西同窓会会長の菅家大幸氏(高14)のご発声で、会津清酒花春の乾杯で始まりました。今回の懇親会は前回のコロナ過とは違い、テーブル上の仕切り板無しで個別配膳でもなく、通常の宴会方式での運営となりました。
懇親会では6名の新入学生の参加があり、院生も含めた学生さんを2名ずつ各テーブルに分かれて入ってもらった結果、各テーブルを越えての交流の輪が広がり、より深い親睦が図られました。終宴まで残り30分となった宴たけなわの折、プロのサクソフォン奏者・陬波花梨(すわかりん)(高62)さんが飛び入りでサクソフォンの演奏を3曲披露してくださり、会場はこれまでにない大きな盛り上がりを見せました。
続いて学而会歌・凱旋歌斉唱となり、応援団OBでもあった司会進行の目黒雅之氏(高33)のリードでCDによる演奏の後、学而会歌・凱旋歌を熱唱いたしました。最後は参加者で唯一の会津中学卒業で最年長の寺木良巳氏(中51回)にご登壇いただき、一言ご挨拶と来年の再会を祈念しての手拍子による中締めで懇親会を終了しました。来年度は例年どおりの春開催【令和6年4月20日(土)11時~上野精養軒】を予定しております。多くの同窓生の皆様のご参加をお願い申し上げます。
幹事長 鈴木忠正(高15回)
令和5年度在京会高同窓会 記念講演
「関東大震災から100年:国難災害に対する最重要課題とその改善へのヒント」
目黒公郎 (東京大学教授、高校33回卒)
1.大正関東地震と関東大震災
今年、2023年は1923年9月1日に相模トラフ(図1)を震源として発生したM8クラスの大正関東地震からちょうど100年である。この地震が引き起こした甚大な被害の総称を関東大震災と呼ぶが、その具体的な被害や影響は、構造物被害や延焼火災、流言飛語の問題などを中心として語られることが多い。全潰(倒壊や崩壊の意味)建物が約11万棟、全焼が21万2千余棟に達した。死者・行方不明者は約10万5千人、その87.1%(約9万2千人)が焼死者、地域としては東京府(66.8%)と神奈川県(31.2%)で全体の98%を占めた。
激しい地震動が南関東の広域を襲い、神奈川県を中心に、建物の倒壊の他、液状化による地盤沈下、崖崩れや地滑り、沿岸部では津波(静岡県熱海で12m。千葉県館山で9.3m、鎌倉由比ヶ浜で9m、洲崎で8m、逗子、鎌倉、藤沢の沿岸で5~7m、神奈川県三浦で6mなど)による被害が発生した。結果として、建物被害による死者・行方不明者は1万1千余人に上り、これは阪神・淡路大震災の建物被害の犠牲者の2倍を超えた。さらに津波による死者・行方不明者は200~300人であり、これは1993年北海道南西沖地震による津波の犠牲者よりも多い。土砂災害も各地で発生し、700~800人の死者・行方不明者が出ている。とくに小田原の根府川駅での列車転落事故では、山津波(土砂崩れ)によって列車が海中に没し、そこに津波が押し寄せ100人を超える犠牲者を出した。
関東大震災の被害額には様々な推定があるが、その額は概ね約45億円~65億円である。これは、当時の我が国の名目GNP(約152億円)の30~44%、一般会計歳出(約15億円、軍事費約5億円を含む)の約3~4.3倍に相当する。単純比較は難しいが、現在の一般会計歳出が約107兆円(2022年度)、GDP(2021年度)が545兆円であることを考えれば、関東大震災のインパクトは現在の我が国にとっては、150兆円~460兆円相当であったと言える。
ところで、図1は木造建物の全潰率を基に評価された震度分布であり1)、長周期地震動は含まれていない。しかし、最近の研究成果からは、南関東地域では4秒から10秒の長周期地震動が誘発されることがわかってきた。関東大震災の当時には、この程度の固有周期を持つ構造物や施設はなかったので、大きな問題は顕在化しなかった。しかし、この周期帯は、現在、首都圏に多数存在する30階建以上の高層ビルや長大橋の固有周期、大型タンク内の液体のスロッシング周期と一致することから、注意が必要である。また、100年前に大規模な土砂災害が広域に発生した丘陵部や山間部には、当時は住民も施設も少なかったが、現在ではこれらの地域は大勢の人々が住む市街地になっている点も要注意である。
しかし、関東大震災から我が国が受けた影響や教訓は、上述のような議論だけで十分なのだろうか。この後の私の話では、この震災が発生した時代背景やその後の我が国の歩みを俯瞰した上で、関東大震災が我が国に与えた重大な影響について考察するとともに、今後わが国を襲う可能性の高い巨大災害に対する最重要課題を指摘し、それを改善する考え方を述べてみたい。
関東大震災の後には、甚大な被害を受けた首都圏の復旧や復興には強いリーダシップや統率が必要になった。震災直後、政府は、緊急勅令によるモラトリアムを実施して震災手形を発行するとともに、この手形の割引損失補償令を公布した。震災手形による損失を政府が補償する体制を整備したわけだが、この手形が1927年に不良債権化し、金融恐慌を招き昭和恐慌へとつながる。またこの時期は、関東大震災のみならず、国内の他の地域でも地震災害が多発(1925年北但馬地震、27年北丹後地震、30年北伊豆地震、33年昭和三陸地震)した。また、1925年の治安維持法の制定、27年金融恐慌、31年満州事変、32年には「5・15事件」が起きた。そして我が国は、33年の国際連盟脱退、36年「2・26事件」、37年日中戦争、41年の太平洋戦争へと向かった。
大正時代は、政治的には、明治時代の元老を中心とした藩閥主義を脱して、政党政治に移行しようとしていた時代である。経済や社会活動においても、第一次世界大戦による経済好況やその後の戦後不況、護憲運動や労働運動、婦人参政権運動、部落解放運動などが活発に行われた。市民の生活においても、洋食・洋服や文化住宅など、西洋式の衣食住が広がるとともに、芸術や大衆文化、新聞やラジオ、路面電車や乗合バス、そして家庭電化製品など、都市の文化も形成された。いわゆる「大正デモクラシー」であるが、関東大震災は、この自由な雰囲気を一気に変え、わずか22年後には民間人を含め300万人を優に超える死者を出す第2次世界大戦の敗戦への転換点になった。
図2に示すように、大正関東地震は明治維新から現在までの時間(156年間)の前半の1/3の時点で発生し、22年後の第2次世界大戦の敗戦がちょうど中間年になる。その後の我が国が、この2つの出来事から多大な影響を受けたことは言うまでもないが、その大本は関東大震災である。
2011年に発生した東日本大震災は、私たちが開発してきた都市や地域が、平時の効率性とは裏腹に災害脆弱性を増大させることを露わにした。21世紀の半ばまでに発生する危険性が指摘される首都直下地震や南海トラフ沿いの巨大地震(東海・東南海・南海地震やこれらの連動地震)は、東日本大震災と比較して、はるかに大きな被害を及ぼす可能性が高い。理由は、南海トラフ沿いの巨大地震は東北地方太平洋沖地震に比べて震源域が陸地に近いこと、太平洋岸の大都市群が災害危険度の高い低平地に立地していること、さらに首都圏では、脆弱な木造家屋が密集した地域が多く、これらの地域は揺れによる被害とその後の延焼火災の危険性が高いこと、湾岸地域では液状化現象が発生する危険性が高いうえに、長周期地震動の影響を受けやすい石油コンビナートをはじめとする各種プラントや火力発電所などが林立していること、などである。
このような状況を背景に、政府中央防災会議は、首都直下地震では被害総額約95 兆円、避難者数700万人、死者数2.3万人、南海トラフ巨大地震では被害総額約220兆円、避難者数430万人、死者数32万人になると試算している2), 3)。しかし、これらの被害想定は発災から数日後までの被害、すなわち津波や延焼火災までを対象としたものである。そこで土木学会は、2018年に20年間の長期的な経済損失を試算したが、その被害総額は首都直下地震で855兆円、南海トラフ巨大地震で1,541兆円と、国の存続が危ぶまれる「国難(級)災害」の規模になる4)。
(1) 諸外国での例
国の存続さえも難しくなる「国難級災害」として有名な事例をいくつか紹介する。
ヨーロッパでは、1755年のリスボン地震がある。この地震はポルトガルの首都リスボンの沖合300キロで発生したM8.5~9の巨大地震である。まず最初に激しい地震動がリスボン市を襲った。この揺れによって、リスボン市内の建物には健全なものが1棟もないと言われるほどの被害を受けた。さらにその後に襲った巨大な津波と延焼火災で、リスボン市の人口の1/3以上の死者が発生し、直後被害のみでポルトガルのGDPの1.5倍以上を失った。この被害により、海運や植民地政策で世界をリードしてきたポルトガルは一気に国力を失い、かつての輝きを完全に失った。
アジアでは1970年に、当時、インドを挟んで、西と東に分かれていたパキスタンの東パキスタン、今のバングラデシュをベンガル湾から高潮を伴う巨大サイクロンが襲った例がある。このサイクロンをボーラサイクロンというが、この災害による死者は最大50万人に達したと言われ、これは20世紀以降で1回の自然災害で最大の死者数を出した災害になっている。この状況を受け、東パキスタンは西パキスタンに支援を求めるが、これが不十分であると反発し、それがその後の独立運動の一因になった。
(2) 我が国における例
我が国においては、江戸幕府の末期、安政年間に国難級災害が発生している。しかし、我が国では、これが一般に知られていない。日本史の中で子供たちに教えていないからだ。私も子供の時には全く知らなかった。図3に示すように、1853年からの10年程度の期間に繰り返して発生した自然災害とパンデミックによって、幕府は財力と求心力を大きく失ったことが、その後の幕府の終焉に大きな影響を及ぼしたのである。1853年の旧暦の2月2日に嘉永の小田原地震が発生し、小田原城の天守閣が大破する。その4か月後の6月3日にマシュー・ペリーが黒船4隻で浦賀にやってきて、幕府に開国を求める。これは日本史でも教えてくれる。開国したくない幕府の曖昧な態度に対し、ペリーは1年後にまた来るので、それまでに結論を出して置くようにと言って、帰っていく。しかしペリーは1年度ではなく、半年後の1854年の旧暦の1月に日本にやってきて、再度開国を迫る。これに抗しきれずに3月に結んだのが「日米和親条約」である。この年の旧暦の11月4日と5日の2日間にわたって、関東から九州に至る我が国の太平洋ベルト地帯が2発の巨大地震(安政の東海地震と南海地震)に襲われた。両者のマグニチュードはいずれも8.4、その間隔はわずか31時間であった。この2つの巨大地震により、太平洋ベルト地帯は激しい地震動と巨大な津波に襲われ、壊滅的な被害を受ける。当時の我が国の総人口は約3,300万人、さらにこの地域の人口は現在に比べてはるかに少数であったが、3万人を超える人々が亡くなった。
この2連発の巨大地震から1年もしない翌1855年の旧暦の10月2日にM7クラスの地震が江戸を襲う。安政の江戸地震と呼ばれる首都直下地震であり、江戸で1万人の死者が出た。幕府は諸施設が被害を受けたので、その復旧・復興の支援を諸藩に求めるが、諸藩も130を超える江戸屋敷で死者が出るほどの被害が出ているので、幕府の要望に簡単に応えることは難しい。ましてや、太平洋ベルト地帯の藩では、前年に甚大な地震被害を受けているのでなおさらである。
その1年もしない1856年の旧暦の8月25日に、今度は高潮を伴う巨大台風が江戸湾を襲う。安政の江戸暴風雨である。これによって10万人の死者が発生したが、これはわが国における最大の風水害である。風水害で10万人もの死者が発生すると、次には感染症が発生するのが常であるが、この台風の2年度には通常の感染症に加え、コレラが猛威を振るった。1858(安政5)年に、長崎に入港したアメリカ軍艦の乗組員から伝播したコレラが、関西から東海道を経て旧暦の7月には江戸に至り、8月には大流行した。治療法もなく3日コロリと呼ばれ、即死病として恐れられた。1858年の夏には、江戸だけで3万人から10万人がコレラで死亡する。これを安政のパンデミックと呼ぶが、この年の6月がタウンゼント・ハリスを米国代表として「日米修好通商条約」を締結したタイミングである。ワクチンもない時代なので、コレラはずっと流行するが、1862年にはこれにさらに麻疹(はしか)が加わり、江戸だけで20万人以上ともいわれる人が死亡する。1853年から1862年までのわずか10年の間に、地震や台風などの自然災害が多発すとともにパンデミックまで発生したのだ。幕府は、このような状況の中で諸外国との対応を強いられていたということ。財政的にも諸藩からの求心力も大きく失う状況があったことがわかる。
明治維新は地方の藩の下級武士(維新の志士たち)が先見の明があって、悪い幕府を倒し、新しい時代として明治維新を達成したように子供に教えるが、これは正しくない部分が多い。実際はイギリスの東アジア政策の影響を大きく受けている。また、日米和親条約に加え日米修好通商条約を締結した米国が、当時、日本に対して最も有利な立場を有していた。しかし、日米修好通商条約の締結の後は、幕府が終焉を迎える大政奉還(1867年)までは、米国は日本への積極的な働きかけを停止している。なぜか? 1861年から65年まで、米国は自国内で南北戦争をしていたからである。その米国の留守の間に、イギリスが勢力を拡大し、倒幕派の諸藩に近づき、知恵と財政的な支援を行った。その中心人物の1人が1859年に来日したトーマス・ブレーク・グラバー(長崎のグラバー邸の主)である。グラバーは生糸やお茶の商人として訪日しているが、その実態は武器商人で、討幕派にも佐幕派にも、幕府にも武器を大量に売っている。土佐の脱藩浪士の坂本龍馬に知恵を与え、活動の多ための旅費や武器の購入費、さらには軍艦を購入する資金などを工面し、龍馬の活動をサポートした人物である。近年、彼の屋敷(グラバー邸)からは龍馬をかくまった屋根裏部屋が発見されている。1865年に南北戦争が終わった米国は、無用の長物となった大量の小銃(鉄砲)を日本に持ち込んで売りつけた。我が国は、新政府も旧幕府側もそれらを大枚をはたいて購入し、戊辰戦争ではこれらを使って日本人どうして殺し合いをした。
また、不平等条約であった日米和親条約や日米修好通商条約の改正のために、明治政府は鹿鳴館を建設して近代国家をアピールしなくてはいけなかったとか、陸奥宗光や小村寿太郎らの長年にわたる努力が必要だったなどと子供の時に教わった私は、これらの条約が本当に悪い条約であったと思っていた。しかし、これらの条約に関しても別の解釈が可能だ。これらを米国と締結していたことで、イギリスが他のアジア諸国に実施したような非人道的な扱いをされないための歯止めになったということである。しかし、明治政府が、「幕府が締結した条約によって、わが国が守られた」などと言うはずがない。歴史は常に勝者の都合のいい記録でしかないからだ。関税自主権がないという話も正しく理解されていない。米国が他国と結んだ同様の条約での関税率は、インドには2%、中国には5%しか認めていないが、我が国には20%を認めていたし、5年度の見直しも条項に入っていた。これらがその後、日本にとって厳しくなってしまう背景には、締結後の薩摩藩による生麦事件(1862年の旧暦8月)や、長州藩による馬関海峡(現 関門海峡)を通過する外国(アメリカ・フランス・オランダ)艦船に対する無通告での砲撃(1863年の旧暦5月)などがある。
歴史は、様々な方向から学ぶことが重要である。
図4に我が国の人口の変化を示す。江戸幕府が開設された1600年代の初め、我が国の人口は約1,230万人であった。これが1700年の初めに約3,000万人まで増加し、その後はほぼ一定で推移し、明治維新(1868年、明治元年)年の時点では約3,300万人である。その後、我が国の人口は急激に増加し、2010年にピークを迎え1億2,800万人になり、その後は減少に転じている。
明治維新の前年に大政奉還がなされ、各藩の江戸屋敷に勤めていた武士たちは地元に戻ったので、幕末に120~130万人であった江戸(東京)の人口は67万人に減った。これが明治維新の時点での東京の人口である。その後の人口の変化は表1に示す通りである。全国的な一律の人口調査が初めて行われた明治6(1873)年を基準に、平成27(2015)年と比較した日本全体の人口増加率は3.84倍であるが、首都圏(1都3県:東京都、神奈川県、埼玉県、千葉県)の平均人口増加率は13.27倍である。特に、東京、神奈川、埼玉の人口増加率は17倍を超えている。関東大震災直前と比較すると、全国平均の1.73倍に対して、1都3県の平均は2.96倍、とくに東京の増加倍率は5.11倍と大幅に増加していることがわかる。
江戸幕府が滅び、明治政府が生まれてことで、わが国の様々な状況が大きく変わった。その中でも、私は明治政府による地方からの人材登用の功罪について指摘したい。
(1)参勤交代の真の意味
約270年間続いた江戸幕府の時代、日本には約300の藩が存在し、地方の藩であっても、有名な藩校があり高度な教育を実施し人材を育成していた。今日では、地方は衰退し、人材教育も難しくなっているが、なぜ当時はそれができていたのだろうか。私は次の2つが大きなポイントであったと考えている。1つは基本的に人々(特に武士)がいずれかの藩に所属し、簡単に他の地域に居住地を移すことはできなかったこと(脱藩は大罪)、そしてもうひとつは参勤交代である。参勤交代は、3代将軍徳川家光が寛永12(1635)年に制定した武家諸法度(寛永令)で制度化したもので、諸大名は1年おきに自分の領地と江戸を行き来しなければならず(関東の大名は半年おき)、妻子(正室と世継ぎ)は人質として、江戸(江戸屋敷にて)で生活をしなければならないというものである。これに要する費用は各大名が負担する決まりであったので、「各藩の経済状況を弱めることができ、謀反を防ぐことができた」といわれている。少なくとも私は、小学校や中学校では、そのように教えられた。
しかし、その後、自分なりに色々と調べると様々な疑問が出てきた。例えば、江戸幕府の評定所が編集した幕府の法令集として、「御触書集成」がある。8代将軍吉宗が、元和元(1615)年以後の幕府法令の編集を評定所に命じ、寛保4(1744)年に完成した「御触書集成(寛保集成)」には、「従来の員数近来甚だ多し。且つは国郡の費、且つは人民の労なり。向後その相応を以てこれを減少すべし。(訳:従者の人数が最近大変多いようだ。これは一つには、領国支配のうえで無駄であり、また一方で、領民の負担となる。以後は、身分に応じて人数を減じなさい。)」の記載がある。これからわかることは、参勤交代が定められた後のかなり早い段階で、「各藩の経済状況を弱める」ことは主目的ではなくなり、江戸幕府への軍役奉仕の意味が強かったと考えられる。しかし、このような意味以上に、参勤交代は実は我が国の国土の運営上、とても重要な2つの貢献をしていたと私は考えている。一つ目は国土全体のインフラの整備を大きく促進させた効果である。参勤交代によって、街道や宿場が整備され、物流や経済の活性化に大きく貢献し、我が国のGDPが大きく増加した。もう一つは人材育成に与えた大きな効果である。各藩の最も優秀な人材(大名の近くにいる選ばれた人材)が、日本で最も文化や技術の進んだ江戸を定期的に見聞するとともに、同じように江戸に来ていた他藩の優秀な人材と人的交流を持つ機会を与えたことである。一方で参勤交代に参加する人々は全て藩に所属し、江戸住まいの人を除き、基本的に子供は地元の藩で育てた。これが、地方であっても、優れた人材を教育する藩校が成立した理由である。また、特に優秀な者に対しては、江戸でつくったネットワークを用いて、藩校間で留学させることもできた。
(2)明治政府の人材登用
明治維新以降の我が国は驚異的な速さで発展するが、その背景には明治政府による地方からの人材登用がある。江戸時代に各地で育成された日本中の優秀な人材を東京に集め、高給で招聘した外国人教師に学ばせ、海外留学もさせ、帰国後には重要なポストにつけた。明治維新からわずか30年後の1900年前後には、学術的には世界の最先端に追いつくという世界の奇跡を生んだ。推薦者の必要なノーベル賞の受賞は湯川秀樹まで待つことになるが、図5を見れば、その業績が驚異的なものであり、ここに東京出身者がほとんどいないことから、地方の優秀な人材が東京に集められ、大きな成果を挙げていたことがわかる。明治期の諸学会の会長を調べても、ほとんどの学会の歴代会長は地方の出身である。政治においては、薩長土肥に偏る傾向があるが、軍事や経済などを含め、日本の中枢は地方の優秀な人材を登用することで成立していた。
図5の中に私たちの郷土の偉人である山川健次郎先生も入っている。山川先生は日新館に学び、白虎隊士でもあった。東京帝国大学総長を2回、さらに京都帝国大学総長、九州帝国大学総長などを務めた山川健次郎先生が、このような業績を挙げることができたのはなぜか?戊申戦争に敗れた会津藩は石高を大幅に減らして斗南藩に移ることになった。会津の将来は次世代の若者に託すしかなかったが、会津の若者を環境が整った中で学ばせることは困難であった。そこで、会津藩の重臣であった秋月悌次郎が行ったことは、会津で最も優秀な2人の少年を旧知の友人である長州藩士に託すことだった(図6)。この2人の少年の1人が後の山川先生である。秋月の申し出を受け、2人の少年を書生として受け入れ、勉強できる環境を用意してくれたのが長州藩士は奥平兼輔である。奥平自身は後に前原一誠らと「萩の乱」を起こし、捉えられて36歳で処刑されるが、奥平のお陰で2人の少年の1人は研究者、1人は軍人として成長する。
私は会津人の郷土を愛し、友人を大切にするところが大好きだ。しかし、「いまだに戊辰戦争でいじめられたとか、薩長は嫌いだ」などと言い続けている人が少なからずいることにはいつも辟易する。国際社会の中で、ある時期にいじめられたと言い続けていて、周りから尊敬されている国や地域があるだろうか。当時厳しい状況を強いられた祖先たちであったとしも、自分の5世代も後の子孫たちが、いまだに「いじめられた、いじめられた」と言っている状況を潔しとするだろうか。「歴史は踏まえるものであるが、引きずるものではない。」ことを会津人は肝に銘じるべきだ
明治政府が地方の優秀な人材の登用によって、日本の中枢を構成し驚異の発展を実現したという話をしたが、その一方で、明治政府の問題は、このように地方から吸い上げた優秀な人材を地方に再分配する仕組みを用意できなかったことである。これがその後の地方の地盤沈下(衰退)の本質的な原因であると私は考えている。この傾向は現在まで続いているが、昭和30年代までは「長男は家督を継ぐために家に残る」、40年代までは「娘はあまり遠くに行かず、家から通える学校に行って、地域に嫁ぐ」という地方の一般的な風習や親の考えから、一定の歯止めになっていたが、これもその後は薄れていった。
明治維新の時点でわずか67万人になった東京に、図7に示すように、日本中から優秀な人材と東京の活動を支える単純労働力を含めた多くの人材が流入した。比率は多少低いとは言え、単純労働力の担い手も同時に流入したので、平均値の変化は大きくなかった可能性があるが、あるレベル以上の人材の総数は地方に比べて大幅に増強された。特殊な事情によって特定地域への人材の流入があった場合に、対象地域の学術レベルが極端に変化する例は時々発生する。例えば、優秀な人材が多く勤めている会社の家族向けの宿舎ができたりすると、その地域の小学校の子供たちの成績が急に上昇したりする例である。少し大きな地域を対象としたものでは、ある時期の筑波学園都市周辺でも似たような現象があった。この場合は、図8に示すように東京(首都圏)への人口流入と違い、単純労働力の流入は少なく研究者を中心とした人材の流入となる。小学校のクラスで、両親の博士の学位取得者の比率が異常に高くなったり、子供たちの成績が異常に高くなったりする事例である。
(3)首都圏への人材集中の実態
首都圏の難関大学への地方の高校からの入学者が減ってきたといわれて久しい。実際、首都圏の高校からの入学者の占める割合が高まっている。そこで、首都圏の難関大学の代表として東京大学を取り上げ、どこの出身者が多いのかを調査してみた。東京大学に2018年に入学した新入生の親の住所(高校の所在地ではない)を調査した結果5)を図9に示す。図9(a)が北海道から九州までの各地域の人口と全国の人口に占める割合、図9(b)が東京大学の新入生の親の住所の割合である。両者を比較して、全国の人口に対する各地域の人口比と東京大学の全新入生に占める各地域からの新入生の比を比較して正規化したものが図9(c)であるが、1を越えているのは首都圏のみである。特に特に東京都からの東京大学への新入生は、人口当たり3倍以上であることがわかる。これは極端な事例だと思う人がいるかもしれないので、もう少し一般的な調査結果も紹介する。
全国の各都道府県から全国のどこの大学へ何人進学したのかを表したデータがある。その中で国公立大学に進学した者を対象に、どの程度の偏差値の大学に進学したのかを、偏差値ごとに分けて集計すると、全国的には、偏差値65以上の大学へ進学者した者(Aグループ)の割合は12.9%、55~65(同様にB)が31.0%、45~55(C)が53.3%、35~45(D)が2.7%、35以下(E)は0.1%となっている(図10(a))。これを都道府県別に分けて、偏差値が55以上(A+B)の大学に進学した者の割合を求め、その値の大きい順に並べたものが図10(b)である。この値が最も高いのは東京で84.1%、次が神奈川県で81.3%、これ以降は70%台以下になる。比率としては、20%台が最も多く17県であり、最下位は岩手県で18.7%である。福島県は27.2%で47都道府県中35位である。明治維新で多くの人材を輩出した薩長土肥は、鹿児島県が32位(28.8%)、山口県が38位(26.4%)、熊本県が39位(25.6%)、高知県が42位(24.7%)である。人材流出の状況は明白である。
人材の偏在化が起こっていることは明らかであるが、その一方で、難関大学に首都圏から多くの新入生が入るのは、首都圏には入試に有利な教育プログラムをもつ中高一貫校が多く存在するからだという話も聞く。また、日本学生支援機構6)が2018年に発表した「学生生活調査」によると、大学生がいる家庭の平均世帯年収が、国立で841万円、公立730万円、私立834万円となっている中で、東大生の家庭の平均世帯年収は918万円(2017年)と高い5)。
以上のことから、「経済的に恵まれた家庭に生まれ、環境の整った学校に通える者でないと難関大学には入りにくい」という指摘があるが、皆様はどう思われるだろうか。一部には指摘されるような事例もあるだろうが、本質的な部分における私の理解は、上記のような指摘とは異なっている。明治維新から156年(世代でいうと約5世代)が経過し、地方から優秀な人材が首都圏に流入し、そこに定住する状況(優秀な人材の地方への再配分の仕組みが弱い)が継続した結果であるということ。図7にも示したように、首都圏におけるあるレベル以上の人材の量は他地域に比べて圧倒的に多い。なので、伝統がなくても入試に有利な教育プログラムを有する中高一貫校をつくれば、そこに優秀な生徒が入ってくるので、多数が難関大学に進学する。現状では、地方で同様な学校をつくったところで、同様な成果を達成することは難しい。首都圏に比べて人材が少ないからであり、全国区で生徒を集める仕組みがない限り、これは無理と言える。
ところで、一般的に優秀な人たちは収入の高い職業につきやすいので、平均収入も高くなる。知能指数や運動能力などは、親子の間で遺伝しやすいことが知られているので、一定レベル以上の学力を有する子供が、首都圏には多く存在することになり、結果として、難関大学に多く進むことになる。入試に有利な教育プログラムをもつ中高一貫校の影響は副次的と考えられるし、東大生の親の収入が高いのも統計的には必然だということである。
(4)首都圏への人口や機能の集中が持つ意味
首都圏への人口や機能の集中に対して、その原因や理由を尋ねると、多くの皆さんは、「効率がいいから」とおっしゃる。しかし、これは本当だろうか。私はこの考えは近視眼的な評価であって、俯瞰した視点からは間違っていると思っている。私たちは物事の評価や対処法を考えたりする場合には、常に時間と空間を測る長さの異なる2本の物差しを持つことが重要だ。長い時間と大きな空間を評価し、全体最適を目指すための物差しと、短い時間と狭い空間を対象に、局所最適解を目指す物差しである。この両方がないと、本来の理想に沿った現実的な解決策を提案しつづけることは不可能だ。
天然資源に乏しいわが国において、最も重要な資源は人材であり、これを最大限有効活用することが、我が国にとって大切なことは誰もが納得することであろう。首都圏には優秀な人材が集中していることはすでに何度も指摘したし、この人たちのお陰でわが国の中枢機能が保たれている事実もある。しかし、図11にも示すように、特に優秀な人材と一緒に働いている次に優秀な人材は、持ち合わせている能力を十分に発揮する場や必要性が限定される。この人たちが、広く全国に分布すれば、首都圏にそのまま存続する以上に、持っている能力を発揮できる環境が整う。言い換えると、現在の我が国は、最も重要な資源である人材を首都圏に集中させることで、無駄遣いする状況をつくっているということだ。この状態は、長期的には決して「効果的」な状態ではないし、人口や機能の集中は感染症や災害に対してはエクスポジャー(暴露する量)を増やすことで、被害を拡大させる要因になっている。首都圏への1極集中は、首都直下地震との関係で言えば、まとめて人材と機能、そして財産を失うということ、南海トラフの巨大地震に関して言えば、直後の災害対応から復旧・復興時に活躍しなければならない人材が各地で不足するということである。
昭和から平成に移行する1988年から1989年にかけて、竹下登首相が全国の各市町村の地域活性のための「ふるさと創生事業」を行い、使途を問わない1億円を全市町村に配布したことをご記憶だろうか。金額が中途半端なこともあるが、この資金をその後の地域の活性化に効果的に活用した事例を私はあまり聞いた記憶がない。その一方で、そのお金をどう使えばいいのかの知恵がなく、そのお金を使ってコンサルタントに依頼した話や、あまり意味のないモニュメントをつくったという話はよく聞いた。地方が活性化しない理由として資金不足を指摘する声が多いが、私は人材不足がより深刻であると考える。資金を生み出したり、有効に使うことのできる人材の確保がより問題だということ。現在では、様々な分野で海外からの労働力を期待する状況になっているが、これは、明治維新から150年以上が経過し、地方が労働力を供給する体力を失っていることを表している。また最近では、一部の国家や自治体のトップが、「○○ファースト」を標榜するが、これは本質的に成立しない。○○をサポートする周辺組織があって初めて○○が成立していることに対する自覚がなさすぎる。自分が政治家として、そのポストにいる任期程度の時間スケールしか考えていないのかもしれないが、○○ファーストを進める結果として、その後の周辺組織との関係は確実に悪化することを認識すべきだ。
(5)首都圏への極度の集中をどう緩和するか
これまでに延べてきたように、現在、我が国が抱える様々な課題に関して、その本質的な原因や解決のためのポイントのほとんどに、人材と機能や財産の首都圏への極度の集中が深く関わっていると私は考えている。
では、この状況をどのように是正していけばいいのだろうか。まずこの状況の是正を強く促す外圧としては、大災害やCOVID-19などの疫病がある。もう一つは、少子高齢人口減少や財政的な制約の中で、従来型の巨大インフラ整備に依存した大都市や国土の運営に限界がきていること、エネルギー効率や環境負荷などを考えたうえで、適切なサイズの分散型都市を志向しないと社会が成立しない見通しであること、などがあげられる。
一方で、これらの課題の是正を支援するものとしては、特定地域に物理的に集中して存在しなくても、就業が成り立つICT、IOT、DX技術などによる環境改善がある。COVID-19の経験を踏まえ、最近では、いつでもどこからでも仕事が可能であるというWAA(Work from Anywhere and Anytime)という考え方や、生活スタイルもかなり進んできた。しかし、これは親たち(大人たち)の生活スタイルであって、子供の教育は依然として問題である。すなわち、親は首都圏を離れて地方に行っても仕事や生活は成立するが、そこで子供たちが首都圏と同レベルの教育を受けられるかという問題である。しかし、ここでいう教育は大学受験時に首都圏の子供と比較して不利にならないかという意味合いが強く、情操教育とか生きる上で必要な人間力をつけると言った意味での教育ではない。であれば、解決の糸口の一つとしては、入試改革が挙げられる。現在の我が国の大学のように、入学時に高いハードルを課すが、入学後は特に勉強せずとも、入学時の学力も維持できていないような状況でも何とか卒業できてしまう大学ではなく、入学時のハードルは一定レベル下げて、多様な人材を少し多めに入学させる。その上で、入学後には一生懸命勉強しないと卒業できない大学とする。そうすれば、地方で育った子供たちも大きなハンデなく大学に入学でき、その後の勉強においては地方で育った経験も大いに役立つだろう。また、数年間という時間を与えて鍛えれば、都会で育った子供たちに十分追いつき追い越して、立派な成果を挙げることができるだろう。そのためには、卒業生を迎い入れる社会や企業も、従来のように「入社後に教育し直すから、大学時代に学んだ知識や体験は特に期待していない。求めているのが一定レベルの大学に入学したという潜在的な能力だけ」などと言って、学生がモラトリアムとして学生時代を過ごすことを肯定するような姿勢は是正すべきである。
そして、最後は、国土運営政策の大変革(例えば、道州制的国土運営など)であろう。私は、地方への人材の再分配法を考えるために、自分の先輩や友人、後輩や教え子などの中で、故郷が好きで、首都圏ではない地域に就職した人たちに、その動機を聞いているが、その結果わかった興味深いことがある。それは優秀な人材で地方に就職した人の就職先として特徴的だったのは、○○電力、JR○○、NTT○○、NEXCO○○など、エリアとしては都道府県のサイズではなく、道州制のサイズであるということ。これは、学生時代に一緒に勉強していた友人の多くが、上級国家公務員として国を動かしたり、一部上場会社に就職して出世し大きな仕事をしたり、ベンチャー企業を立ち上げて活躍するような中で、都道府県単位では仕事の大きさ(規模や予算額)や影響度、自己満足感などに差があるからのようだ。一概には言えないが、予算や売り上げ規模でいうと数兆円以上、影響人口で言えば1,000万人などの規模になり、これが道州制のサイズと一致する。私自身は道州制の議論が盛んであったころ、あまり興味をもってこれをウォッチしていなかった。しかし今は、明治維新から150年ぶりに人材を地方に再配分する意味において、道州制は議論に値すると考えている。道州制のサイズは大規模災害への対策や対応を考えるうえでも、有利な空間単位にもなっている。もちろん、道州制が成立すれば、現在の都道府県のプレゼンスは低下するであろうことは、認識しておかなくてはいけない。
この度、2023年度在京会津高校同窓会の総会にて、話題提供する機会を頂いた。今年が1923年に発生した関東大震災から100年目であることを踏まえ、まず、関東大震災が発生した時代背景やその後の我が国の歩みを俯瞰した上で、関東大震災が我が国に与えた影響について考察した。次に、今後わが国を襲う可能性の高い巨大災害に対する最重要課題を指摘し、それを改善する私なりの考えについて述べさせていただいた。一般的に言われていることではないことについては、論拠を合わせて紹介させていただいた。
結論から言うと、現在の我が国が抱える様々な問題の多くの原因には首都圏への人口と機能や財産の極度な一極集中がある。多くの人々はこの状況が効率的と思っているが、これは間違いで、我が国で最も重要な資源である人材を無駄遣いする状況をつくっている。また、人口や機能の集中は、感染症や災害に対しては脆弱性を高めている。首都圏への1極集中は、首都直下地震との関係で言えば、まとめて人材と機能、そして財産を失うということ、南海トラフの巨大地震に関して言えば、直後の災害対応から復旧・復興時に活躍しなければならない人材が各地で不足するということである。 さらに、もう1点付け加えると、優秀な人材を最も集めた首都圏において、出生率が最も低い状況を作っている点にも注意を払うべきだ。子供を持つか否かは両親の自由である。しかし、2021年の合計特殊出生率(女性1人が一生で出産する子供の平均数)を見ると、全国平均が1.30であるのに対して、都道府県別では、東京がダントツの最下位47位で1.08、千葉44位(1.21)、神奈川と埼玉が共に40位(1.22)である。かつての日本社会は、優秀な女性たちを家事に専従させ、直接的にはGDPに貢献しない状況をつくっていた。しかし、もはやそんな時代ではないし、女性に社会で働いてもらわない限りGDPの成長も望めない。私自身は、人材の再分配が上記の問題に対しても、大きな効果があると考えている。
以上で、私の雑駁な話を終了しますが、本日の私の講演が防災のみならず、我が国の今後の様々な社会問題の改善に少しでも役立てば幸いです。ご清聴ありがとうございました。
参考文献
1) 諸井孝文、武村雅之:関東地震(1923年9月1日)による木造住家被害データの整理と震度分布の推定、日本地震工学会論文集、第2巻、第3号,pp. 35-71, 2002.
2)中央防災会議 首都直下地震対策検討ワーキンググループ:首都直下地震の被害想定と対策について (最終報告),平成25年12月.
3)中央防災会議 南海トラフ巨大地震対策検討ワーキンググループ:南海トラフ巨大地震対策について(最終報告),平成25年5月.
4)土木学会:「国難」をもたらす巨大災害対策についての技術検討報告書,2018年6月.
5) 東京大学:学生生活実態調査、2018年
6)日本学生支援機構:学生生活調査、2018年、https://www.jasso.go.jp/about/statistics/gakusei_chosa/index.html
プロフィール:
目黒公郎(高校33回卒)
1991年東京大学大学院博士課程修了、その後、助手、助教授を経て、2004年に教授。
現在は東京大学教授、大学院情報学環総合防災情報研究センター長。
放送大学、国連大学、東工大、東北大学などの客員教授、内閣府本府参与、日本地震工学会会長、日本自然災害学会、地域安全学会などの会長を歴任。
令和元年暮れからの新型コロナウイルス感染拡大の影響で令和2~3年度は中止となった在京会高同窓会総会でしたが、令和4年度は当初4月16日予定だったのを6月12日(日)に延期して上野精養軒で開催することができました。実に3年ぶりとなった総会は同窓生の他、来賓、学生も含めて81名の参加ではありましたが、コロナ禍ということを考慮しても、参加者から「開催できてよかったね」という声を多く寄せていただきました。
第一部の総会議事は佐藤学副幹事長の司会進行で始まりました。大平隆司副会長の開会挨拶に続いて校歌斉唱(コロナ禍中であることを考慮し、CD演奏でマスク着用の黙唱とした)、大越康弘会長のウクライナ情勢を交えたご挨拶、母校の鈴木義祐校長のご挨拶に続き、議事に入り、令和3年度会務報告・会計報告・監査報告、並びに令和4年度の事業計画案・予算案が提案され、満場一致で承認されました。そして15年間にわたって会報の表紙を飾ってきた写真を提供してくださった吉川直佑氏(高13回)が昨年12月発行の64号を最後に退かれることになりましたので、これまでの貢献に対して同窓会としての謝意を表すべく、総会の席上で感謝状贈呈を予定しておりましたが、ご本人のご都合で出席が叶わなかったため、後日、地元会津で開催される同級会の席上で大越会長から贈呈することが報告されました。芳賀克己副会長の閉会挨拶で第一部が終了いたしました。 第二部の会員スピーチは間部英司氏(高23回)の司会進行により、医師で東京都立大学名誉教授の星 旦二氏(高23回)による「新型コロナ等の感染症に対する対策の多様性」と題する、正に時宜を得たテーマの講演をしていただきました。 星先生のご講演はリズミカルでテンポよく話されたのでとても聞きやすく、特に印象に残った「お酒は休肝日を設けず、毎日飲むことが長生きにつながる・・・」との説には、「これからはためらうことなく、毎日飲める」という参加者の声が多く聞こえてきました。
小休憩の後、第三部の懇親会は引き続き間部英司氏の進行で、来賓紹介、会津若松市長代理として出席された会津若松市教育長の寺木誠伸氏の祝辞、祝電披露と進められ、令和元年に選任された地元同窓会会長の林健幸氏(高34回)のご発声で、恒例の会津清酒での乾杯で始まりました。 今回の総会は上野精養軒の入り口で体温測定と手のアルコール消毒、飲食時を除いてのマスク着用、着席のテーブル中央には十文字のアクリル板設置、平常時は11名定員のところを6人着席とし、料理は個別配膳とするなど、コロナ感染防止対策を徹底して行ないました。懇親会に入って間もなく、各テーブルを越えてマスク着用での交流の輪が広がり、親睦を深めました。宴もたけなわの折、参加者最年長の寺木良巳氏(中51回)を紹介するため、ご登壇をお願いして、一言ご挨拶をいただき、4名の学生と新社会人1名の会員をその場で起立してもらって紹介するなど、当初の式次第にはなかったパフォーマンスで会場は大いに盛り上がりました。続いて学而会歌・凱旋歌をCDによる黙唱の後、荒井伸吉副会長の中締めとなりました。新型コロナ感染状況を睨みながらの3年ぶりの総会でしたが、開催に漕ぎ着けられたことが、なによりも良かったというのが実感です。来年度は例年どおりの春開催【令和5年4月15日(土)11時~上野精養軒】を予定しております。コロナ対策を心配しなくても良い状況での開催を祈るばかりです。多くの同窓生のご参加をお願い申し上げます。 幹事長 鈴木忠正(高15回)
令和4年度在京会高同窓会 記念講演
記念講演 感染症対策を多様性の視点から考える
星 旦二(東京都立大学名誉教授 高23回)
要旨 コロナ感染症Covit19が世界的に流行し、経済停滞による雇用者解雇や自殺の増加など予断を許さない状況です。ここでは感染症の本質的な予防方法と共に、増加している女性や若者の自死予防について社会経済的要因から考察します。
1コロナウイルスは人を選ぶ
コロナウイルスは特定の人々を選んでいます。特に恵まれない生活環境に生きる人々が罹患しやすく、適切な医療を受けられない人々がより多く死に至っています。新型コロナ対策の模範と言われているシンガポールでは、東南アジアなどからの出稼ぎ労働者が極めて不衛生的な宿舎に生活していたことから大規模なコロナの集団発生が起こりました。アメリカも同様で白人に比べて黒人及びラテン系の感染率はほぼ3~4倍多く、生活環境の厳しい低所得階層により多く感染が広がっています。
2全体を見る視点の必要性
Covit19のよる我が国の約3年間の死亡総数は3万人を超えました。我が国の年間自殺総数は何人でしょうか。また、寒い毎日で何人がヒートショックで死亡しているでしょうか。全体を俯瞰したり多様な視点から総合判断する意義が高いのですが、出来ていない証拠があります。その証拠は手段が目標に代わった「ステイホーム」が典型例として物語っています。為政者は、全体を俯瞰できる情報を提示しない、自分の頭で思考させない集団主義体制です。いまでも、戦争開始時点同様に、愚民化政策が継続されていると考えています。 国民が主権である国では、何が最終的な目的ないし目標であり、そのための手段の一つとして「スティホーム」であれば一定の理解が出来ます。ただし、手段は多様であるべきであり、多様な手段別に見た期待されるそれぞれの効果とデメリットが明示され、最終的には個々人が責任を持って選択すべきです。専門家が限定的な選択肢を一方的に指示すべきではないと思います。「手段の目標化」は、避けなければなりません。
3若い女性自死の背景と子供たちの死因第一位としての自死
非正規雇用者の解雇が増加し、特に女性の自死者数は2020年7月からの1年間、昨年比で約4割が増加し、8月には20歳未満女性が40人亡くなり約4倍増加しています。自死対策こそが非常時態ではないでしょうか。415人は何の数字でしょうか。この数字は昨年度の小中高校生の自死総数です。小学生7名、中学生103名そして高校生は305人です。将来のある心優しい若者であったに違いありません。子供たちの死亡原因第一位が自死である日本、こんな寂しいことはありませんし、具体的で効果的な対策があまりに希薄です。我が国が公的責任として、担うべき自死対策だけではなく組織体制もないがしろにされています。なんとNPOへ今年だけでも約11億円の資金が流れ、未だに我が国では、国立自死予防対策総合研究所(仮称)は創設されてません。
4感染、発病、そして致死予防の提案
感染と発病と致死を明確に区分した取り組みが出来ていません。ウイルスの最大の特性は、自分自身では増殖できなく、細胞内に入らなければ増殖できないことです。我々動物は、空気を取り入れる咽頭や気道には、体内に異物やウイルスを入れなくするために鞭毛による蠕動運動で異物を排泄しています。この異物の体外排除能力を低下させないためには、喫煙をしないことと共に室内空気湿度を低下させない配慮が求められます。同時に、粘膜を損傷させる喫煙による有害物や開放型石油ストーブによる空気汚染を絶対に避けることを願っています。また、湿度を保って鞭毛機能を維持させることもとても大切ですが、加湿器によるカビの放散にも配慮すべきです。
・喉へのウイスキー噴霧による感染発見と予防機能
私が試みている感染予防方法はウイスキーを喉に噴霧する事です。この主な役割の一つは、喉の炎症を検出です。もしも喉が「ぴりぴり」するならば、ウイルスが存在する可能性があります。その時は、ウイスキー噴霧を複数回繰り返すことで炎症が治まります。最大のメリットは副作用がないことです。喉への噴霧に使うアルコール濃度は40%以上が望ましく、酒類は問いません。1回に3ないし4回の噴霧で、アルコール血中濃度が検出されることは決してありません。科学的なエビデンスが弱いですが、3年前から1,368人に対して平均2年半追跡をしていますが、発病者の報告は今のところありません。安価であり簡便で副作用がなく、乳幼児を除く子供も含めて対応可能です。
・万が一感染しても発病させない意義
日常の生活をする限りウイルスや細菌による感染リスクをゼロにすることは出来ません。次に、感染と発病の違いに応じた対策に注目することです。万が一に感染したとても発病させなければとても素晴らしいことです。感染後に求められることは、免疫力を発揮して抗体を獲得することです。ワクチンによる抗体産生に比べて副作用が皆無である点に大きな意義があります。私は、成人後は、ワクチンは一切使っていません。これからも自分の力で自然に免疫を確保して生きることにしています。ホモサピエンス人類が誕生してから約60万年間、実に多くのウイルスによる感染と発病そして免疫獲得を繰り返し、結果的には共存してきたから人類が存続したのです。口腔内と腸内だけではなく皮膚も細菌が常在し、ろっ骨などの神経の内部には、ヘルペスウイルスが常在している人が数多く見られます。発病時には、免疫機能の低下を反映する指標の一つとなっています。
・発病させないためには栄養と腸内細菌活性化が最も大事
万が一にも感染したとても発病させないためには、充分な免疫能力を発揮することが不可欠です。免疫機能を維持する上で欠かせないのは、腸内細菌を活性化させることです。まず、おなかを冷やさないこと、また腸内細菌が大好きな野菜の繊維を豊富に摂り、決して抗生剤を服用しないことが大切です。アジアでのCovit19感染数と死亡数が少ない根拠として、米、とりわけ玄米摂取の意義が示されています。確かに、玄米の微量元素と繊維は、腸内細菌にとっては、最も大切な栄養素であることは確かです。アジア各国でのCovit19死亡率が少ない主な根拠の一つは、欧米に比べて結核感染が残っていることとBCGワクチンを使っていた可能性よりも、数年前からコロナ類似感染症が流行していたからではないかと考えています。致死に至らないウイルス感染は、常在していく意義がある可能性があります。多様性の視点からの検討が必要です。いずれにしても、皮膚にも口腔内にも腸内にも極めて多くの細菌が住み着き、見事な免疫機能を発揮していることが忘れられています。過度な消毒や無菌化信奉は卒業しなければなりません。さらに発病しない最大の基盤は食の豊かさです。総コレステロールが高く、やや肥満の高齢者が最も長寿であることが忘れられています。食の豊かを確保するためには、かかりつけ歯科医師がいて口腔ケアが優れ、結果的には長寿に連動していることは、我々が六年間の生存追跡研究により世界で初めて明確にした科学的事実です。計り知れない土壌菌の多様性を考慮すれば、細菌やウイルスと共存すべきです。ヨーグルト、糠床漬け物、納豆、キムチなどの発酵食品の意義を再確認したいものです。
・感染症の撲滅には薬物だけでは限界がある
世界的にみて感染症が撲滅されていった経緯をみると、ポリオや天然痘におけるワクチンの劇的効果はむしろ例外であり、致死的感染症が激減していった理由は、栄養の向上と上下水道の整備による効果であり、抗生剤による効果ではありませんでした。感染症対策で最も効果的であったのは、経済発展による食生活やくらしの豊かさの寄与度であることは歴史が証明しています。総合科学としての公衆衛生学的な視点と対策が求められるのです。現在は、世界初の遺伝子ワクチンへの過剰な期待感が世界に広がっています。我々が視野に置くべき視点として、短期的な副作用だけではなく、長期的に見たマイナス効果として遺伝子操作による自己免疫疾患を含めて明確になるには、数十年を要することを自覚すべきです。私は、自分に備わった免疫力を信じて自分で抗体をつくります。
・医療依存からの脱却と薬剤耐性菌をつくらない意義
毎年冬に流行する通常インフルエンザでも毎年国民の約三割前後が感染し、数年以内にほぼ全国民が感染しています。その殆どは不顕性感染であり、発病せずに免疫を獲得しています。残念ながら低栄養傾向で、持病による免疫機能が充分ではない虚弱高齢者が感染する場合には、細菌性肺炎を併発し、毎年約一万人が死亡しています。風邪で抗生剤が処方される日本は例外国です。病院は安全ではないことの共有と、根本的な予防原則は、公的責任による一定の所得確保と相互支援活動です。
【星旦二氏略歴】 1950年、福島県生まれ。東京都立大学・名誉教授 放送大学客員教授
福島県立医科大学を卒業し、竹田総合病院で臨床研修後に、東京大学で医学博士号を取得。東京都衛生局、厚生省国立公衆衛生院、厚生省大臣官房医系技官併任、英国ロンドン大学大学院留学を経て現職。公衆衛生を主要テーマとして、「健康長寿」に関する研究と主張を続ける。近著に『新しい保健医療福祉制度論』(日本看護協会・2014年)
私たちは、令和2年度在京同窓会総会・懇親会を、会員スピーチ&懇親会で学生会員や若い世代、同期や先輩・後輩の垣根を超えて楽しく交流していただくべく4月18日の開催に向けて準備を進めてまいりました。昨年10月、総会 U部会員スピーチと V部懇親会の進行役を、輪番制により斎藤仁氏(高20回)に引き受けていただきました。恒例の会員スピーチは、政府系の金融機関に37年間(海外含む)奉職され、知識と経験を元に、現代における新たな地域像を、世界の例を交えながら描いた「地域文化論」著者の、星健孝氏(高20回、元日本開発銀行設備投資研究所副所長)に快諾していただき『過去から学ぶ日本の将来』という演題で、これから日本をどう展望すべきかについて講演していただく予定でした。
3月3日には「案内状と年間行事概要」の発送を済ませ、開催に向け万全を期すべく役割分担を協議しておりました。しかしながら2月中旬頃から新型コロナウイルス感染拡大の影響に鑑み、政府と都知事から「3密」での濃厚接触の恐れのある会合等の自粛を求められており、3月末に執行役員会で協議した結果、会員の皆さまの健康と安全を第一に考慮しまして、大変残念ではございますが、4月18日の令和2年度在京同窓会総会・懇親会を中止とさせていただきました。
総会議案については、会則第3章第11条第3号の「役員会は総会なき場合に限り総会に代わる議決をすることができる。但し、この場合は次の総会で報告するものとする。」に基づき、異例の措置として、8月の役員会を「会報第62号」発行前である5月下旬に前倒して、且つ電磁的方法「電子メール(書面議決)」にて可決されました。今後の年間行事については適時判断し進めてまいります。
会津若松市でも不安が広がる中、4月22日にコロナの早期終息へ願いを込めて、市役所の正面玄関には、布製マスクをつけた特大赤べこが、「みんなでがんばっぺ!」のメッセージと共に感染拡大防止のシンボルとして展示されました。
赤べこは、会津地方にかつて天然痘が流行した際、病気の子どもに赤べこの張り子人形を贈ったところ、たちまち治ったと言い伝えられ、無病息災の縁起物として親しまれている会津を代表する民芸品なのです。
在京同窓会は、来年「設立70周年」の節目を迎えます。人間で言えば古希ということになります。コロナ禍をなんとか乗り越え、楽しみにされている皆さまの“エールと愛校心”に支えられて、同窓会発展のために盛大なる開催ができますよう執行部一同で頑張ってまいります。
来年の総会は4月17日(土)午前11時に開催されます。多くの皆さまのご参加をお願い致します。
幹事長代行小野彰(高19回)
平成31・令和元年度の在京会高同窓会総会が4月21日、新緑が輝くなかの上野精養軒にて、142名の会員・関係者が参加して開催されました。今回の総会は同窓会事務局に加え、高校19回卒の方々が中心となって運営されました。
第一部の総会議事では、大越本会会長・母校の廣瀬敬彦新校長の挨拶に続き議事に入り、平成30年度会務報告・会計報告・監査報告、および平成31年度・令和元年度の事業計画案並びに予算案が恙なく承認されました。当期が役員改選期に当たることから、大越会長以下の新執行部の人事案が提案され承認されました。
新役員として就任された方は荒井伸吉副会長(高17)、廣田潔監査(高19)、芦澤理恵子副幹事長(高64)の3名。併せて、会長に委嘱される常任幹事24名の任命とその業務分担も報告されました。この中には北沢美恵(高61)、芦澤理恵子の女性幹事2名も含まれています。
第2部の会員スピーチでは廣田潔氏の進行により、北海道教育大学名誉教授・独立美術協会会員の相田幸男氏(高19)より 「西洋絵画私見創り手の視点から」(←をクリックすると資料)と題して講演をして頂きました。
小休憩をとった後、12時30分より漸く喉が潤せる懇親会に移行。こちらも廣田潔氏のリードで、来賓紹介・会津若松市教育長の寺木誠伸氏の祝辞・祝電披露と進んだ後、ご存じ、地元同窓会新城猪之吉会長(高21)の名調子で会津清酒にての乾杯の音頭となりました。ここから先輩・後輩・同輩で旧交を温める姿が各処で見られ、殊に30名程の学生参加者も各テーブルに分かれ、自分の親以上の年齢差をものともせず積極的に世代間交流を図る姿が見られました。就活中または前広に就活を考える学生諸兄姉たちは自分の志望する業界等で活躍する先輩を探り当て、積極的に話掛ける頼もしい姿も拝見でき、有意義な時間を過ごしてくれたものと開催側としての喜びを感じたところです。
宴も酣となり喉も潤い腹も充足感を感じたところで多くの学生参加者が登壇して、大先輩の応援団OBの鈴木忠正氏(高15)のリードのもと全参加者ととともに、会津中学・高校の校歌、学而会歌、凱旋歌を熱唱し、年齢を問わず郷里・母校を同じうする者として時間・空間・一体感を共有することができた貴重な機会となりました。来年には更に多くの参加者を募り、同じ思いを共有できる方を増やして行ければ事務局として本望と思うところです。
最後に総会参加者の状況について申し上げれば、現役世代は少なくOB世代が主流となっていることは例年の通りで、若手社会人等の若年層・中堅層から如何にしたらより多くの会員に参加して頂けるか、真剣に取り組むべき課題と痛感するところであります。
来年の総会は令和2年4月18日(土曜日)に開催されます。是非、ご参加をお願い致します。
副幹事長 佐藤学(高25)
総会に参加して
佐藤秋太郎(高70回)
私は今年晴れて大学生となり、会津学生寮に入寮しました。はじめ同窓会の知らせを聞いたときは行くつもりはありませんでしたが、寮長の強い勧めを受けて参加することにしました。寮の先輩・友人と早めに上野精養軒へ向かい受付のお手伝いをさせていただきました。思っていたより広く厳格な会場の雰囲気を感じながら、来賓の皆様や先輩方の姿を見て、同郷の人だと思うとどこか安心したような気持ちになりました。テーブルに着くと同じ世代の顔が並び、周りを見渡すと大先輩方が談笑していて、これからのことに期待が高まりました。会が始まると相田幸男先生の西洋絵画に対する貴重な講演をお聞きしたり、これまでに味わったことのないようなおいしい料理をたくさんいただいたり、会津の酒を注いで回りながら先輩方とお話しすることができました。特に、高校の、また人生の先輩でもある方々から頂戴したお話は、これからの自分の人生への道標となるとともに私たちにかけられた大きな期待を感じさせられるものでした。さらに、「学而会歌」「凱旋歌」を精一杯歌ったことで高校時代の思い出がよみがえり、改めて今後自分も会津高校という看板を背負っていくのだと自覚しました。今思い返しても実に貴重な時間で、充実した会だったと思っております。ありがとうございました。今後行われる同窓会によるイベントや次年度の総会にもぜひ参加したいと思いますので、今後ともよろしくお願いいたします。